僕のメジャースプーンネタバレあり感想

ぼくのメジャースプーン

 

「ぼくのメジャースプーン」を未読の方で、まだ「こどもたちは夜と遊ぶ」を読んでいない場合、先に「こどもたちは夜と遊ぶ」を読むことを強く強くオススメします。

 

 

この物語は、何が善で何が悪なのかを僕達読者がそれぞれの立場から考える小説。

 

 

 

この小説の主人公は小学生なので、主人公のとある能力の教師となる大学教授がまさに「小学生にもわかる」易しい言葉、簡潔な表現、様々な事例を使って「善悪」について質問をします。

 

 

 

物語の中で聞かれているのは主人公の「ぼく」ですが、同時に僕達読者に語りかけています。

 

 

 

「所詮小説だから」とさらっと読み飛ばすのではなく、自分に置き換えて考えてみてください。

 

 

 

 

考えるべき事例の1つは、ある事例を紹介したあと、登場人物が自分の知り合いだったらどう思うか?など状況によって自分の善悪の判断が変わってしまうような質問が個人的なおすすめ。

 

 

 

 

 

またこの記事には物語中盤まで読み進めた段階で判る内容を元に書いていますので多少のネタバレを含みます。

 

 

しかし、物語の核となるラストに関しては一切触れていません。

 

 

この記事の最後に「子どもたちは夜と遊ぶ」の伏線である、秋山先生がある男子大学生を「消した」方法に関するネタバレをします。

 

 

ぼくのメジャースプーンとはどんな作品なのか

 

優しい

 

以下の文章には物語の核心には触れないものの、作品中盤程度まで読まないとわからない設定、ストーリーに関してのネタバレを含んでいます。

 

 

 

 

 

 

この物語は優しい物語です。

 

 

 

主人公の「ぼく」は小学校の4年生、10歳です。

 

 

「ぼく」には不思議な力があります。

 

 

 

文庫本のあらすじには「ショックで心を閉ざし言葉を失ったふみちゃんのために犯人に対してぼくだけができることがある」と書かれていますが、その”できること”こそが、不思議な能力を使うことなのですが、その能力とは何かを説明します。

 

 

 

 

「ぼく」がもっている能力とは「言葉による呪い」を、人に1度だけかけることができるという能力です。

 

 

 

「Aという条件をクリア出来なければBという結果が起こる」という言葉を本気で相手に投げかけることで、その人の行動を潜在意識上で縛ることができる能力です。

 

 

条件次第では他人をこの世界から消す事もできるし、何かを強制的にさせることもできる。

 

 

勇気を持てずに行動できない人に向かって「一生後悔したくなかったら○○をしろ」といった条件を提示すれば、その人が本当はやりたくても出来くなっているいことの後押しをしてあげることもできる能力ですが、

 

 

 

基本的にこの能力は人を「罰する」ことに向いている能力です。

 

 

人に勇気や元気を与えることもできますが、人に罰を与える能力と理解したほうがわかりやすい。

 

 

優しい罰

 

物語ではふみちゃんの心を壊した犯人に対して”ぼく”がどんな言葉で彼を罰するのかが描かれています。

 

 

 

この犯人の犯した罪は動物を虐殺し、それをネット上で公開したことですが、法律的には器物損壊の罪が適用されます。

 

 

しかし、犯人は刑務所に行くことはなく、執行猶予が付き特に罰らしい罰を与えられなかったため、犯人は何も失ったものがないとい状況です。

 

 

犯人は医者の息子で医大に通う医大生、親はお金持ちで何不自由ない人生を送り、罪の意識もまったく持っていない。

 

 

 

 

どうしようもない暴力によって大事なものが壊されたにも関わらず犯人は罪の意識もなく、何も失うものがないとしたら、その犯人にどのような罰を与えるべきなのか。

 

 

この問題に「ぼく」は答えを出さなければならない。

 

 

法律に委ねなくても自分の手で犯人に自由に罰を与えれれる時あなたならどうしますか?という「復讐」に答えを出していく物語というよりは、あなたにとっての善悪とは何かという問題をテーマにしている小説だと僕は思います。

 

 

圧倒的な暴力を振るった相手とはいえ、誰かに復讐する物語がなぜ優しい物語なのか?それを次に解説します。

 

 

僕のメジャースプーンが優しい話の理由

ぼくのメジャースプーン罰

 

 

 

なぜ犯人に復讐する物語なのに「やさしい」のか?それを説明するために、まずはこの本を読んで感じたことが2つのことについて説明します。

 

 

1つはヒトの善悪に対する基準は実にあやふやなものであり、簡単に判断できるものではないということ。

 

 

そしてもう一つは優しさとは何かです。

 

 

犯人に対して復讐するという表現が小説の中で何度も使われますが、復讐の仕方は様々な方法があり、どの方法を選んだとしても正解はないような気がします。

 

 

まず思いつくのが自分にされたことと同じことを犯人にも味わわせる「目には目を歯には歯を」というやり方です。

 

 

しかし、この方法では憎しみの連鎖が断ち切れないので復讐の連鎖が途切れない可能性があります。

 

 

「罪を憎んで人を憎まず」という考え方もあります。

 

 

交通事故等の場合には、法律の改正やミラーの設置や看板など同じような事故を防ぐことを望む遺族の話はよく聞きます。

 

 

この方法の場合犯人への憎しみはを赦し、忘れるか必要があるかもしれません。

 

 

 

そして、もう一つの方法は関わりを持たないという方法。

 

 

どのやり方を選んでも復讐をすることが優しさに結びつくようには思えません。

 

 

個人的には忘れるというのが最も優しい方法であるような気がしますが、大切なものを理不尽に奪われた人からすれば最も難しい選択な気がします。

 

 

そして物語の主人公である「ぼく」が選ぶ復讐は”忘れる”ではありません。

 

 

 

小説の中で「ぼく」は大学教授の秋山先生から、言葉の使い方を習います。

 

 

その過程で”善悪”について学んでいきます。

 

 

正義とは一体何なのか、何が自分にとって善であり悪なのかを10歳の「ぼく」は先生との「言葉の使い方」を通じて学び・考えることになります。

 

 

自分の考える善や悪が本当に正しいと言えるのか?先生は僕に問いかけます。

 

 

善悪を考える上で厄介なのは善悪の基準が簡単にブレることと、そもそもその基準が人によって異なるということです。

 

 

例えば、自分にとって関係のない話であれば、善悪の判断は素早く明確に(的確に判断できるわけではない)行えるが、身近な人が関わってくると途端に判断の基準がブレることを先生は「ぼく」に教えます。

 

 

それはそのまま読んでいる僕達にも問われている問題ですよね。

 

 

海外で飛行機事故やテロなどが起きた時になぜニュースキャスターが「日本人がいる、いないか」を僕達に伝えるのでしょうか?

 

 

きっと日本人が含まれているかいないかでニュースバリューが変わるからでしょうし、日本人がいると聞いた瞬間から遠い場所で起こったはずの事件が急に身近に感じられた、という経験をしたことはあると思います。

 

 

善悪の基準は、対象との関係性(心理的な距離)によって劇的に変わります。

 

 

自分と無関係の人が巻き込まれた悲劇に対しては冷静な判断がくだせても、自分の身近な人が被害にあった場合、その犯人に「仕返し」以外の方法を待ちいた復讐を選ぶこと、もしくはそれ以外の選択肢があることを思いつくことができるでしょうか?

 

 

ぼくのメジャースプーン共感

 

僕達が持っている善悪に対する基準は、相手も同じような善悪の感覚をもっているだろうという「共感」からスタートします。

 

 

自分がされて嫌なことは相手も嫌なはず、だから嫌なことはしないというのが善悪を考えるスタートになります。

 

 

この場合の「共感」は人間に自然に備わっている能力です。

 

 

大抵の場合この能力を使えば、物事はうまくいく。

 

 

でも、自然に備わっている能力であるがゆえに、人によってその能力には過不足があります。

 

 

また相手が必ずしも自分と同じ基準を持っていない場合がある。

 

 

その場合相手がどんな基準で善悪を判断しているか、想像し可能な限り理解しなければいけません。

 

 

相手も自分と同じ善悪の基準を持っていないと分かっている場合は自分のもっている善悪の基準を押し付けても相手は理解できません。

 

 

共感というインスタントで便利機能な機能が人間には備わっているから、この行動をしたらどんなことが起こるのかを想像し思考しなくても、僕たちは大きな間違いを犯さずに大抵の場合は問題を起こさずに生きていけます。

 

 

優しさに利益は必要なのか

ぼくのメジャースプーン優しさ利益

 

もう一つの優しさについてですが、どうすれば僕たちは他人のために行動できるのでしょうか?言葉を変えれると僕たちは他人のために自分を犠牲にして行動することが本当にできるのでしょうか?また他人のために行動する無償の行為だけが「優しさ」なのでしょうか?

 

 

哲学者のデイビット・ヒュームによれば人が他人のために行動するためには「経験的によって形成された共通利益の感覚(onvention)」が必要だと言っています。

 

経験的に形成されたというのは「なんとなくこれがいいよね」という感覚を共有した経験のことです。

 

 

細かい説明は省きますが、ヒュームが考える利他的な行動をヒトが取るために必要なものとは、お互いにとって利益があることです。

 

 

でも、この解釈ちょっと違和感がありませんか?

 

 

僕達が考える利他的な行動とは自分の利益は限りなくすくない、もしくはまったくないけど、相手の利益は多大なものという印象はありませんか。

 

 

 

 

なんとなく「優しさ」の中に自分の利益が含まれていると、その「優しさ」は偽善のような気がしてしまう。

 

 

 

ヒトは自分の利益がまったくないにも関わらず、誰かのための行動・完全な利他的な行動を取ることができるのでしょうか。

 

 

 

「ぼく」はなぜふみちゃんを壊した犯人が許せないのか?10歳の子どもだから、でしょうか?

 

 

確かにある実験では、ヒトは自分に利益がないにも関わらずヒトのために行動することができます。

 

 

人に近いといわれる霊長類でもこのような行動はできません。

 

 

しかし、10歳の子どもにはもう自分なりの善悪の基準があり、親や社会を通じて学んだ規範、ルールが存在します。

 

 

 

10歳とは言え完全に利他的な行動を取るためには何らかの自分にとっての利益が必要なのかもしれません。

 

 

「ぼく」はなぜふみちゃんを壊した犯人に復讐するのでしょうか?本当にふみちゃんのためなのか?この点も「ぼくのメジャースプーン」を読む上でのポイントになるとぼくは思っています。

 

 

ぼくは優しい物語だと何度もこの小説を紹介しています。

 

 

つまり「ぼく」の復讐は「優しさ」から産まれたものだと思ったということです。

 

 

でも、人によっては「ぼく」の復讐は許されるものではないと感じるでしょう。

 

 

ラストではなぜ許されないのか、なぜ優しいのか、両方の解釈が上手に説明されます。

 

 

ヒュームの言う共通利益は50:50の利益のことですが、僕たちは限りなく0:100に近い状況でも行動することができる。

 

 

脳科学的な説明をすれば損失回避とか他人に喜びを与えたいという

 

 

やや残酷なシーンが序盤にあります(特に動物好きにはきつい)ので、ヒトによっては読むのがしんどいかもしれませんが、その部分は読み飛ばしてでも続きを読んでもらいたい作品です。

 

 

 

 

 

 

子どもたちは夜と遊ぶの伏線

 

 

「子どもたちはよると遊ぶ」と「ぼくのメジャースプーン」には大きな関連があります。

 

 

「子どもたちはよると遊ぶ」で秋山先生が真紀ちゃんに酷いことをしていた学生に向かって何を言ったのかが判明します。

 

 

僕が「子どもたちはよると遊ぶ」で疑問だったのは一体どんな言葉を男子学生にかければ、顔面がすぐに蒼白になるほどの恐怖を与えることができるのだろうか?ということです。

 

 

その謎は「ぼくのメジャースプーン」を読めばすぐに解決します。

 

 

秋山先生も「ぼく」と同様に言葉による呪い、言葉によって人の人生を縛る”声”を出すことができる人だったのです。

 

 

秋山先生は男子学生にこう言いました。

 

 

 

一年以内に自分の命を投げ出せるほど愛せる存在をみつけられなければ、ここから消える。

 

 

 

 

学生は見つけることができなかったので”ここ”から消えました。

 

 

 

”ここ”を強調したのは”ここ”が何を差しているのかは不明だからです(生死も不明で、分かっていることは先生の目の前から消えたことだけ)。

 

 

ここが教室を意味していると男子学生が解釈すれば大学から消える、ここがこの世界という意味なら・・・という感じです。

 

 

この能力の難しい点は言葉で条件や罰を設定するので相手の解釈次第でどのような展開を迎えるのかは、言葉を発したほうも予想するしかないということでもあります。

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